翻訳家によるコラム「分子生物学・バイオ技術・環境コラム」



分子生物学・バイオ技術・環境コラム

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2012/01/30
毒ガスについて

生物学翻訳、学術論文翻訳、環境翻訳担当の平井です。

オウム真理教による松本サリン事件、地下鉄サリン事件、そして、イラクやスーダンでの製造疑惑以来、一躍有名になってしまったサリンやVXは、毒ガスと呼ばれる化学兵器の一種です。このように純粋に人間の殺傷目的で開発された毒ガスは、第一次世界大戦中ドイツが西部戦線で、カナダ軍との前線に使用した塩素ガスが最初といわれています。それ以来、第一次世界大戦が終結するまでにフランス軍のマスタードガスなど多くの種類の毒ガスが使用されました。

第一次世界大戦の終結とともに開かれたジュネーブでの会議で、毒ガスの戦時使用は禁じられましたが、その後も、36年のタブン(tabun)、38年のサリン(sarin)など、農薬用の有機リン系殺虫剤によく似た構造の毒ガス開発は進められました。第二次世界大戦では幸いに、お互いの報復を恐れたためか、実戦で使用されることはありませんでした。

これらの有機リン系毒ガスは、体内の神経回路を妨害するために神経ガスと呼ばれています。

神経回路が興奮するとアセチルコリンという物質が、シナプスと呼ばれる連結部分の空間に放出され、これが次の神経や筋細胞の受容体に到達することで信号が次から次に伝わりますが、次の信号を受け取るためにアセチルコリンはただちに分解される必要があります。ところが、有機リン系のこれらの毒ガスは、このアセチルコリンを分解する酵素と結合してその作用を阻害してしまうため、アセチルコリンがシナプスに過剰に蓄積する結果、神経細胞が信号を次に伝えることができなくなります。

現在、サリン(GB剤)、ソマン(GD剤)、タブン(VX剤)が代表的な神経ガスで、半数致死量はわずか0.1ミリグラムから0.4ミリグラムをいわれます。そして、この毒ガスは呼吸器からだけでなく皮膚からも吸収されるため、防毒マスクだけでは防げません。毒ガスとして使用されるのは、(1)毒性が強い、(2)効果が迅速、(3)散布が容易、(4)皮膚からも吸収される、(5)散布後、時間が経つと毒性がなくなる、(6)貯蔵できる、(7)安価である、などの特徴があるものです。

そのため、有機リン系以外の化学兵器としての毒ガスはマスタードガスと青酸ガスぐらいです。非殺人型の毒ガスは、防毒マスクで容易に防げるため、暴徒鎮圧で使用される数種類を除いて存在しません。

この毒ガスを浴びた場合は、アセチルコリンと拮抗するアルカロイドのアトロピン、有機リン系農薬の解毒剤として開発されたPAMなどが用いられます。いわば、毒をもって毒を制するわけです。


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